日本は誰のもの?
と聞くだけで空気が凍る理由
「日本って、誰のものなんだろう?」
居酒屋のカウンター、午後9時過ぎ。
グラスの氷がカランと鳴った瞬間、場の空気がすっと冷えたのを、今でも覚えている。
政治の話をしたわけじゃない。批判もしていない。ただ、疑問を口にしただけだ。
それなのに、隣の席は目を伏せ、正面の友人は曖昧に笑った。
「重い話、やめようぜ」
その一言で、会話は別の方向へ流れていった。
居酒屋のカウンター──「日本は誰のもの?」の一言で空気が凍る瞬間(イメージ)
目次
1. 違和感:主権者なのに、当事者じゃない感覚
最初の違和感は、会議室だった。
2014年、東京・霞が関近く。外資系企業との共同プロジェクトで、私は日本側の窓口を任されていた。
相手の担当者が、こう言った。
「日本政府の意思決定者は、誰ですか?」
一瞬、言葉に詰まる。
省庁名は浮かぶ。役職も出てくる。
でも「誰が最終的に決めているのか」を、一文で説明できなかった。
霞が関──日本政府の中枢。ここで誰が本当に決めているのか?
一般論では、日本は民主主義国家だ。
主権は国民にある。憲法にも明記されている。
では現実はどうか。
政治参加の代表例である選挙。その投票率を見てみよう。
■ 2021年衆議院選挙 投票率(総務省公表資料)
| 項目 | 値 | 備考 |
|---|---|---|
| 投票率 | 約55.9% | 小選挙区基準 |
| 棄権率 | 約44.1% | 意思表示をしなかった割合 |
| 傾向 | 低下傾向 | 戦後低水準が続く |
約44%が投票せず──主権者なのに当事者意識が薄い現実
投票箱──意思表示をしない人が増えると、少数が決める構造に
2. 恐れ:国を語ると「危ない人」扱いされる空気
ふと振り返ると、日本では「国の話」が妙に危険物扱いされている。
愛国心という言葉を出せば、身構えられる。
制度の話をすれば、「思想強め?」と距離を取られる。
なぜか。
一因は、戦後教育の反動だろう。
国を語ること=過去への回帰、という短絡的な連想。
もう一つは、メディアの単純化だ。
「右か左か」「保守かリベラルか」
現実はもっとグラデーションがあるのに、二択に押し込められる。
その結果、多くの人が黙る。沈黙は安全だ。だが、無色でもある。
3. 失敗談:声を上げなかった代償は、後から来る
ここで、少し痛い話をしよう。
私は以前、ある業界団体の意思決定プロセスに関わった。
議題は明らかに現場不利。「このままだとまずい」と感じていたが、空気を読んで発言を控えた。
結果どうなったか。
数年後、その決定が原因で、若手が大量に辞めた。
私も後処理に追われ、現場で頭を下げる側に回った。
あのとき一言でも言っていれば、結果は変わらなかったかもしれない。
少なくとも、後悔は減った。
国も同じだ。
声を上げない選択は、短期的には楽だが、長期的には必ず自分に返ってくる。
4. 事実:日本は「所有物」ではなく「共有財産」
法律的に整理しよう。
日本国憲法前文および第1条。
ここに書かれているのは、明確だ。
日本国憲法 公布時の署名原本──主権は国民に存する
- 主権は国民に存する
- 政府は国民の信託によって運営される
つまり、日本は
政治家のものでも、官僚のものでも、企業のものでもない。
天皇はどうか。
天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」であり、所有者ではない。
では誰のものか。
答えは少し詩的になるが、現実的でもある。
今を生きる国民と、まだ生まれていない未来の国民の共有財産。
私たちはオーナーではない。
一時的な管理人だ。
日本は未来の世代への共有財産──私たちは一時的な管理人
問いを口にできる国は、まだ終わっていない
「日本は誰のもの?」
この問いを投げたとき、空気が凍る。
それは、この国が弱いからではない。
考える習慣を失いかけているサインだ。
問いを避ける国は、静かに衰える。
問いを持ち続ける国は、揺れながらも立て直せる。
完璧な答えはいらない。
居酒屋でもいい。家族との会話でもいい。
一度、口に出してみてほしい。
「この国、誰のものだと思う?」
その瞬間、あなたはただの消費者ではなく、
日本という国の当事者になる。
未来は、急には変わらない。
それでも、問いを投げる人が増えた分だけ、
この国は、まだ選び直せる。
そう信じている。















